名艇  ベイグラント号

<アメリカズ・カップとハラショフ>
ベイグラントの設計者、ハラショフのデビューはまさに鮮烈であった。
1885年、86年、87年と3年を連続して行われた、英国における
すさまじいばかりのチャレンジをことごとく退け、アメリカズ・カップを守り抜いた
、アメリカチームに最大のチャレンジャーが現れる。
1893年、当時最高のアメリカズカッパーデザイナーとの呼び声の高かった、
C.Lワトソン設計によって、同年4月に進水した117フィート、ヴァルキリーは、
海洋王国グレートブリテン英国の威信をかけた、最新・最強のヨットであった。
アメリカチーム、ニューヨークヨットクラブはヴァンダービルド(ベーグラント初代オーナー)
O.アイセリン、W.ロックフェラーを中心にシンジゲートを設立し、英国のチャレンジを
受けるべく新艇を建造する。
最大の危機を迎えたアメリカチームは、その新艇のデザイナーに若干45歳の
NAT.ハラショフを指名し、また、スキッパーとしても指名した。
つまり、アメリカチームの命運をハラショフの腕一本に賭けたわけである。
英国チームの最強船‘ヴァルキリー’の進水に遅れること二ヶ月、小雨降る6月に
姿を現したハラショフ設計の船は‘ビジラント’と命名された。
そのあまりの美しさにニューヨークヨットクラブのメンバー達は感嘆の声を上げた。
しかし、その美しさに隠れた‘強さ’には確信がもてなかったようである。


<1893年 第13回アメリカズ・カップレース>
同年10月、レース海面に姿を現したチャレンジャー英国チーム‘ヴァルキリー’の
速さは、アメリカチームアメリカチームの度肝を抜いた。
87年のレースタイムを一時間以上短縮すると豪語する英国チーム‘ヴァルキリー’に
対し、ディフェンダーアメリカチーム‘ビジラント’の美しさはいかにも弱々しげに見えた。
後にアメリカズ・カップ屈指のグットレースと称されたレースが切っておとされる。
スタート直後からチャレンジャー英国‘ヴァルキリー’の力強い走りは、
ディフェンダーアメリカ‘ビジラント’を圧倒しており、常にリードを許す‘ビジラント’は
やはり美しいだけの船だと思われた。
最終レグに入ると、満を持したように‘ビジラント’の美しい航跡が、‘バルキリー’の
荒々しい航跡を切り裂くように追走する。ついに並びかけた‘ビジラント’のスターンを
眺めた‘バルキリー’のスキッパー グランフィールドが思わず発した「天使が現れた」
という言葉とともに‘ハラショフ・ビジラント’の名前は世界中に轟く。
アメリカチームの3勝に終わったレースだったが、第三レースの強風下における、
英国チーム‘ヴァルキリー’のアタックはすさまじいもので、セールを二枚破りながらも
40秒差まで迫ったレースは、アメリカズ・カップ ベスト オブ 5レースと云われ、
今も語り継がれている。
センセーショナルなアメリカズ・カップのデビューを果たしたハラショフは以後、

1895年  挑戦艇  英国  ヴァルキリーV(オーナー:ダンレイヴァン)
1899年  挑戦艇  英国  シャムロック  (オーナー:トーマスリプトン)
1901年  挑戦艇  英国  シャムロックU(オーナー:トーマスリプトン)
1903年  挑戦艇  英国  シャムロックV(オーナー:トーマスリプトン)
1920年  挑戦艇  英国  シャムロックW(オーナー:トーマスリプトン)
とことごとく英国チームのチャレンジを退け、アメリカズカッパーのデザイナーとして
輝かしい経歴と名声を獲得した。


<ベイグラント号の進水>
第一次世界大戦のため、17年間の空白の後、1920年13回大会において、
トーマスリプトン‘シャムロックW’とのアメリカズ・カップ史上最大の接線を制するのだが、
その間の1910年にヴァンダービルドファミリーの新しい相続人への卒業プレゼントとして、
‘ベイグラント’は進水する。
ベイグランとは進水直後から数々のレースのレコードタイムを次々と塗り替えていき、
その造形は、1920年にアメリカズ・カップ史上最大の接戦を制したディフェンダー
アメリカチーム‘レゾリュート’まで引き継がれてゆいく。
アメリカズ・カップ史上いや世界帆船史上、きわめて重要な‘ベイグラント号’。
現、ハラショフミュージアム館長 ハラショフが、1998年に来日、涙を流しながら
「奇跡だ」と叫んだ‘ベイグラント号’。その美しい姿は今、ここ西宮に存在する。


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